ワインは1日2 / 3本

勉強を人一倍頑張っている(と自負している)イタリア帰りの理系大学院生が、日々の勉強・読書・お酒について綴っています

ペットロスを控えて

f:id:uno_fktr:20190716202450j:plain

ご無沙汰してます。りゅうです。

最後の更新以来、学生らしく、より勉学に励む日々を送ってきました。

お金はありませんが、図書館で本を借りては開き、無駄に潰した日は全くなかった、と胸を張って言えます。

友達もほとんど学校におらず、寂しいと感じることも多々ありますが、充実した生活を楽しんでいます。

 

が、先週より胸がぎゅっと締まるような思いでいっぱいです。

タイトルにもある通り、僕の実家のペット、愛猫が天に召されようとしています。

 

 

 

現状

海の日の三連休、僕は大学に行って研究をするつもりでしたが、実家の母の一報より予定を変えざるを得なくなりました。

 

「みーが末期ガンと診断されました」

 

以前、当ブログの記事でも書いたことがありますが、実家では4匹の猫を飼っており、その中の最年長が「みー」です。

https://www.wine2-3.work/entry/2018/11/23/041834

僕が小学5年生の頃に、何処からともなくひょろっとやってきた、野良猫でした。

 

この前の日曜日(7/14)に実家に帰り、みーの姿を見て、愕然としました。

5月の終わりに見たみーとまるで違い、やせ細って呼吸もままならない姿が横たわっていました。

僕が寄り添っても、顔を上げる元気もなく、一呼吸、ひと呼吸を振り絞るように、必死におこなうだけ。

身体からは肉が明らかに落ち、背中を撫でる僕の手に伝わってくるのは、硬い骨。

皮の下には臓器しかないかのように、呼吸の度に肺が大きく膨らんではしぼむのが痛々しいほど分かりました。

 

眠るときも目を閉じず、暗闇にいるかのように黒目を大きくしたまま、ぴくりとも動かなくなります。

その目の前で手を振っても、何も反応がありませんでした。

 

本当に、ほんとうに認めたくはありませんが、死期の中にいるのは誰の目にも明らかでした。

今も、このブログを書いている今も、実家の父母から知らせがやってくるかもしれない、と怖くてこわくて仕方がありません。

文章がまとまらないかもしれませんが、今考えていることを書いておこうと思います。

 

ヘッセのクヌルプ

この数日、僕の頭にあるのはヘルマン・ヘッセさんの「クヌルプ」という小説です。

ヘッセさんの小説は「車輪の下」や「デミアン」といったものが有名ですが、僕はこの小説が一番心に残っています。

 

この小説の主人公、クヌルプは、過去の恋愛で彼女を深く傷つけてしまった、という自責の念にとらわれたまま、一生を過ごします。

大変教養があり、魅力的な人物でありながら、他の女の子と親しくなっても、「僕は誰かと恋愛をする立場では......」と自ら身を引いたまま、放浪の旅を続けます。

そんな彼にも死期が訪れ、亡くなってしまう直前に、彼の元へ神様が訪れます。

(ネタバレのような文章ですが、これ、新潮文庫の裏側にも書いてあるんです)

 

神様に向かってクヌルプは訴えます。

「彼女と別れてしまってから、ずっと苦しかった。僕の人生は一体何なんだろう」

神様は言います。

「別れたときの辛い記憶にとらわれるのは止めなさい。

確かにあなたたちは別れてしまいましたが、そのときまで楽しい日々を過ごしていたではありませんか。

そうした楽しくて輝かしい記憶を、思い出すべきです」

 

今の僕と家族は、悲しい思いにとらわれていますが、みーとの楽しい思い出はちゃんと残っています。

別れは非常に辛いものですが、それにとらわれるだけでなく、みーから与えられたものを思い出すべきなんだろうな、と自分に言い聞かせています。

 

微分・積分的考え

これは佐藤優さんが、本の中でしばしば用いる表現法を自分なりに応用したものです。

僕は、感情は微分のようなものだと思っています。

どんなに幸福であったり、豊かであったりしても、一時的な気の落ち込みで「自分はとんでもなく不幸だ」や「悲しくて仕方がない」と憂鬱になってしまうものです。

ただ、客観的な幸せの測り方は、おそらく積分によるもので、一時的な気の落ち込みや悲しい出来事に振り回されるべきではないと思います。

今、僕の傾きは明らかにマイナスの方向に向かっていて、悲しくて辛い気持ちでいっぱいですが、みーとの日々を思い出すと、それを覆い被すくらいの楽しくて幸せな気持ちがやってきます。

 

確かに、死や別れはとてつもなく辛いものですが、その瞬間までの思い出を大切にすることを、忘れないようにしなければならないのでしょう。

 

おわりに

いつかこういう日が来るのは分かっていました。

イタリアにいた昨年度、ずっと、「みーが......」という訃報がやってくるかもしれないという不安が胸にありました。

こうして、一年間の海外在住の後、またみーに一目会えただけでも幸せなのかもしれません。

 

ちょっと苦しい日々が続きますが、こうした形で、現状や思っていることをまた徐々につづっていけたらいいかな、と思っています。